ハピネス
昨年末、バカ息子に日本米を喰わせんがため母親がやってきた。
スーツケースはゴハンがぎっしり。
この人は私がいるところならアジアでもヨーロッパでもアフリカでも、一人でフツーにやってくるのがすごい。
六十代で一人で行けない所がほとんどないというのは息子としてはかなり有り難いし心強い。
私の通っていた小学校は東京の文京区という所にあって、小綺麗な恵まれた環境の中で進学力も都内で一、二番くらいに高かったような気がする。
だもんで、母親参観日になるとゴージャスな母親達がここぞとばかりキメキメで扇子片手にそれはそれは嬉しそうに授業を眺めていた。
朝日の当たるリノリウムの床の教室に香水の匂いが充満して(シャネルの5番が大流行したちょっと後の頃だったからたぶん皆、お約束の5番だ)子供ながら少し圧迫感を感じた。
圧迫感を感じたけれども、なんというかそれは今考えると哀しくなる程しらじらとしていて、コクトーが女性を風刺するときの絵みたいな感じだった気がする。
たぶん三分の二くらいはそんな親だった。
そんなコッテリスーツのブロッコリーみたいなヘアスタイルのマダム達の中で、
私の母は腰までのストレートヘアに(私の育児中も髪を短くした事は一度もない)真っ赤なベルボトムをヒップで履いていて、
周囲からはわりと白い目で見られがちだったけれど、最高に美しかった。
「オマエのかーちゃん、なんかちがうなぁ」とか「オマエのかーちゃん五輪真弓みてぇ」とか「オマエのかーちゃん愛想がねぇ」とか級友には言われたのを覚えている。
ここだけの話、私のかあちゃんは私を産むはるか以前にアメリカ合衆国はテキサスでピーターとかいう田舎者の保安官と暮らしていた。
ピーターの家の地下にはビリヤード台やスロットマシンがあってアメリカの豊かさを実感した事や、
週末は黒人の友達とゴーゴー(ディスコだね)に行ってソウルミュージックを聴いた事をたくさん話して聞かせてくれた。
1960年代の話だからソウルに関してはかなりリアルな体験だと思う。羨ましい。
そんなわけだから私も東京で幼稚園に行く前にはゴーゴーに連れて行かれ、ソウルミュージックをしこたま聴かされた。
ダンスフロアに4歳児は私だけだったので少し怖かった。中でも髪がピンク色をしたお姉ちゃんがいてとてもおっかなくて未だに脳裏に焼き付いている。
そんな環境で育った私は、子供ながら東京の環境に不充足感を抱くようになり(東北から移ったのも私には辛かった)
物心つくと口癖のように「自由になりたい」「自由になりたい」と馬鹿者のように繰り返していた。
すると母は大抵こう言った。
「自由になりたければ自分で洗濯をしなさーい」「自由になりたければ自分で食事を作りなさーい」「自由になりたければ自分で掃除をしなさーい」
私の答えは決まってこうだった。
「ママ、それじゃあ自由が無くなっちゃうよ」
小学校入学の少し前に親戚にもらった入学祝いセットに鉛筆セットが入っていた。その手の鉛筆にはお尻に小さな円柱型の消しゴムが金属で引っ付いている。
あれがあると便利なのだ。
私の母はそれを少し怒ったような顔をしてペンチでバリバリと一本残らずもぎ取ってしまった。あわれ鉛筆。ピーターよ元気か?かあちゃんは怖かったろう?
「こんな半端な物に頼ってはいけません、消しゴムは消しゴムで用意しなさい」
小学校入学前の私には意味がまったく分からなかったけれど、今になると母の真意が分かる。
その時の母は今の私と同い年くらいだから、はるかに私よりも見据えていた。私が今、もし一人の男として出会っても相手にされないだろう。
IRFORD 100 summitar 5cm
agfa ULTRA 100 summar 5cm
agfa ULTRA 100 summar 5cm
母との久しぶりの再会にあたって最も恐れていたのは、やはり母の「老い」だ。できれば考えたくない。
マザコンを自称しながらも何年も顔すら見せず、電話も手紙も年に一、二度(メールは出すけど)。
これではマザコン失格ではないか。
久しぶりにやってきた母は私の心配をよそに(本当は母の方がもっと心配しているのだと思うけど)まったく以前と変わらず元気な若い母だった。
なんだか、それだけで色んな心配事や全てが「もういっか」と思えるほど安堵した。
現在、間借しているアパートは脱衣所というハイソな空間が哀しいかな無い。
だもんで、タオルを用意するのをうっかり忘れて風呂に入った。
風呂から出る段階になって不備に気づく。困った。床中水浸しになるではないか。
と思ったら、先ほど母が入浴の際に使ったタオルが、目の前に掛けてある。
半乾きだけど、まぁ似たようなもんだろう。
と顔を拭いたら久しぶりに母の匂い。何年ぶりだろう。
体中の力が抜けていくようで完璧な平和に包まれた感じ。
「全ての母親はおっかさん!と言われて悪い感じはしない」って寺山修司が言っていたけど、母というのは特権的な力があるものだね。
今回、母は1週間とちょっとの滞在だったけれど3回程私の恋人に間違えられた。
一度はいつも行くネット屋のおばちゃん、二度目はアパートの管理人さん、三度目は帰国の際空港へ向かうタクシーの運ちゃんに。
実は年齢詐称ヘアは母と二人で美容室に行って、ヘアカタ(死語)を見て母はエビちゃんふうヘア(エビさんって日本では人気者なのですよね??)
にして私はタッキーふうヘアにしてゲタゲタと笑いながら二人で街を闊歩していたのだ。これはかなり楽しかった。またやりたい。
母がこの国にくるのもかれこれ4度目。さすがに慣れた様子で食堂でもあれこれ拙い現地の言葉で注文していて頼もしかった。
こういう日々がずっと続くといいのだけれどなぁ。と何度も思った。
こうしている間にもたくさんの親子が無意味に殺戮されています。
なにものでもない人間がなにものでもない相手を殺す。思い込みの蓄積がそうさせるのでしょうか。
何の某は日本国籍を有しているが、その人自身は突き詰めればなにものでもないはずです。
社会性というけれど、社会そのものを見たことがある人なんていないでしょう。
大抵の人が思っている社会というのはたぶんですが、オフィスの建物とか学校の建物とか駅とか道です。それは建築物でしょう。
結局、在るのは人と人です。
とらわれない発想で平和な社会を残したいものです。私を含め大勢の人の「気づきの深さ」みたいなものをもっと明敏にできないものでしょうか。
スーツケースはゴハンがぎっしり。
この人は私がいるところならアジアでもヨーロッパでもアフリカでも、一人でフツーにやってくるのがすごい。
六十代で一人で行けない所がほとんどないというのは息子としてはかなり有り難いし心強い。
私の通っていた小学校は東京の文京区という所にあって、小綺麗な恵まれた環境の中で進学力も都内で一、二番くらいに高かったような気がする。
だもんで、母親参観日になるとゴージャスな母親達がここぞとばかりキメキメで扇子片手にそれはそれは嬉しそうに授業を眺めていた。
朝日の当たるリノリウムの床の教室に香水の匂いが充満して(シャネルの5番が大流行したちょっと後の頃だったからたぶん皆、お約束の5番だ)子供ながら少し圧迫感を感じた。
圧迫感を感じたけれども、なんというかそれは今考えると哀しくなる程しらじらとしていて、コクトーが女性を風刺するときの絵みたいな感じだった気がする。
たぶん三分の二くらいはそんな親だった。
そんなコッテリスーツのブロッコリーみたいなヘアスタイルのマダム達の中で、
私の母は腰までのストレートヘアに(私の育児中も髪を短くした事は一度もない)真っ赤なベルボトムをヒップで履いていて、
周囲からはわりと白い目で見られがちだったけれど、最高に美しかった。
「オマエのかーちゃん、なんかちがうなぁ」とか「オマエのかーちゃん五輪真弓みてぇ」とか「オマエのかーちゃん愛想がねぇ」とか級友には言われたのを覚えている。
ここだけの話、私のかあちゃんは私を産むはるか以前にアメリカ合衆国はテキサスでピーターとかいう田舎者の保安官と暮らしていた。
ピーターの家の地下にはビリヤード台やスロットマシンがあってアメリカの豊かさを実感した事や、
週末は黒人の友達とゴーゴー(ディスコだね)に行ってソウルミュージックを聴いた事をたくさん話して聞かせてくれた。
1960年代の話だからソウルに関してはかなりリアルな体験だと思う。羨ましい。
そんなわけだから私も東京で幼稚園に行く前にはゴーゴーに連れて行かれ、ソウルミュージックをしこたま聴かされた。
ダンスフロアに4歳児は私だけだったので少し怖かった。中でも髪がピンク色をしたお姉ちゃんがいてとてもおっかなくて未だに脳裏に焼き付いている。
そんな環境で育った私は、子供ながら東京の環境に不充足感を抱くようになり(東北から移ったのも私には辛かった)
物心つくと口癖のように「自由になりたい」「自由になりたい」と馬鹿者のように繰り返していた。
すると母は大抵こう言った。
「自由になりたければ自分で洗濯をしなさーい」「自由になりたければ自分で食事を作りなさーい」「自由になりたければ自分で掃除をしなさーい」
私の答えは決まってこうだった。
「ママ、それじゃあ自由が無くなっちゃうよ」
小学校入学の少し前に親戚にもらった入学祝いセットに鉛筆セットが入っていた。その手の鉛筆にはお尻に小さな円柱型の消しゴムが金属で引っ付いている。
あれがあると便利なのだ。
私の母はそれを少し怒ったような顔をしてペンチでバリバリと一本残らずもぎ取ってしまった。あわれ鉛筆。ピーターよ元気か?かあちゃんは怖かったろう?
「こんな半端な物に頼ってはいけません、消しゴムは消しゴムで用意しなさい」
小学校入学前の私には意味がまったく分からなかったけれど、今になると母の真意が分かる。
その時の母は今の私と同い年くらいだから、はるかに私よりも見据えていた。私が今、もし一人の男として出会っても相手にされないだろう。
IRFORD 100 summitar 5cm
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母との久しぶりの再会にあたって最も恐れていたのは、やはり母の「老い」だ。できれば考えたくない。
マザコンを自称しながらも何年も顔すら見せず、電話も手紙も年に一、二度(メールは出すけど)。
これではマザコン失格ではないか。
久しぶりにやってきた母は私の心配をよそに(本当は母の方がもっと心配しているのだと思うけど)まったく以前と変わらず元気な若い母だった。
なんだか、それだけで色んな心配事や全てが「もういっか」と思えるほど安堵した。
現在、間借しているアパートは脱衣所というハイソな空間が哀しいかな無い。
だもんで、タオルを用意するのをうっかり忘れて風呂に入った。
風呂から出る段階になって不備に気づく。困った。床中水浸しになるではないか。
と思ったら、先ほど母が入浴の際に使ったタオルが、目の前に掛けてある。
半乾きだけど、まぁ似たようなもんだろう。
と顔を拭いたら久しぶりに母の匂い。何年ぶりだろう。
体中の力が抜けていくようで完璧な平和に包まれた感じ。
「全ての母親はおっかさん!と言われて悪い感じはしない」って寺山修司が言っていたけど、母というのは特権的な力があるものだね。
今回、母は1週間とちょっとの滞在だったけれど3回程私の恋人に間違えられた。
一度はいつも行くネット屋のおばちゃん、二度目はアパートの管理人さん、三度目は帰国の際空港へ向かうタクシーの運ちゃんに。
実は年齢詐称ヘアは母と二人で美容室に行って、ヘアカタ(死語)を見て母はエビちゃんふうヘア(エビさんって日本では人気者なのですよね??)
にして私はタッキーふうヘアにしてゲタゲタと笑いながら二人で街を闊歩していたのだ。これはかなり楽しかった。またやりたい。
母がこの国にくるのもかれこれ4度目。さすがに慣れた様子で食堂でもあれこれ拙い現地の言葉で注文していて頼もしかった。
こういう日々がずっと続くといいのだけれどなぁ。と何度も思った。
こうしている間にもたくさんの親子が無意味に殺戮されています。
なにものでもない人間がなにものでもない相手を殺す。思い込みの蓄積がそうさせるのでしょうか。
何の某は日本国籍を有しているが、その人自身は突き詰めればなにものでもないはずです。
社会性というけれど、社会そのものを見たことがある人なんていないでしょう。
大抵の人が思っている社会というのはたぶんですが、オフィスの建物とか学校の建物とか駅とか道です。それは建築物でしょう。
結局、在るのは人と人です。
とらわれない発想で平和な社会を残したいものです。私を含め大勢の人の「気づきの深さ」みたいなものをもっと明敏にできないものでしょうか。
by barrameda
| 2009-01-11 12:18
| diario
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