カテゴリ:育児( 15 )

走る攻める蹴る

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今年は子供達はサッカー一色の一年となりました。
二人とも地元のアカデミーに入ってサッカーの練習に汗を流す日々でした。
やはりフィジカルを鍛えるとメンタルも追って強くなっていくのが手に取るように感じられます。
兄弟喧嘩も熾烈を極めてくるようになりました。
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息子は幼稚園を経験していないのでタイ語英語を伴う集団行動に当初は少しだけ重圧があったようですが
最近は小学生のお兄さん達に身体でぶつかってくようになりました。
ちなみにサッカーのルールはまだ理解してません。
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我が家ではホームスクーリングで学習時間を作っており、娘は1秒も学校に行ったことがないので
娘は同年代の女の子達と母語で存分におしゃべりできる貴重な時間なので、そっちも楽しみなようです。
よく言われる「協調性が育たない」とか「友達ができない」的な諸問題
(学校に行っても協調性のない大人は数多だと思うが)は個々の子供達の性格に依る部分が大きいと思うけれど、
適当に放置しておけばシャイな子でも人種も言語も越えて友達は普通にできるんじゃないかと思います。
人種間、宗教観の軋轢の少ないタイ・バンコクという環境に感謝です。
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西洋人の子はやはりシュートもドリブルも強いです、日タイ混血の子達は足が俊敏です。
ウチの娘はモッサリと皆の足を引っ張ってます。
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一人でジムに行ってミシェル・カミロなんぞ聴きながら汗を流す時間を作りたいのですが、
当分はサッカーになりそうなので、子供時分以来のマイ・スパイクを買って子らと汗みどろになろうかと思案中の暮れです。



by barrameda | 2016-12-21 14:53 | 育児 | Comments(0)

ちいさな舵取り

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最近は、心の中で考えてることと同時に口では違うことをしゃべるようになってきました。^^
まあ、それが私にも分かっちゃうんですけどね。
言葉の問題もタイ人たちが子供に非常に寛容なので街に出るのが楽しい様子で(暑いけどね)、
相手が大人であれば英語とタイ語で簡単なコミュニケーションをとるようになりました。
旅家族のようになってしまって旅家族特有のダメさも満載だと思うけれど、柔軟な察知力なんかもネコの額程度は身につくかも…
と思っています。
6歳児なりに国籍や人種、宗教、社会的地位の違いなどは色眼鏡なしのフラットな目線が出来つつあるのじゃないかと思います。
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せがれはまだまだです。


by barrameda | 2015-06-15 23:26 | 育児 | Comments(4)

教科書

教育委員会に行って娘の教科書を頂いて参りました。
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上が私が使っていた小学校一年時の「こくご」で下が現在使われている「こくご」です
(間もなく改訂されるようです)。
A4サイズの方が使いやすそうな感じ。
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共に第一頁見開き。 
上は具体的に描かれています。
テレビや映画を観ているイメージです。
髪の毛も黒髪の子は一人も居ません(実際に子供達の頭髪の色も食生活からなのか明るく変化してますね)。
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私の教科書は漠然としてます。
動きや行間を自分から埋めていかないと辿り着けない印象ですね。
私は下の方で育ったので「教えられてる感」の少ない下で良かった〜 と思いますが
現代の子達のイマジネーションを掻き立てそうなのは上ですかね。
一長一短でしょうか。
紙質は圧倒的に現代の物の方が上質ですが、色の美しさは下かなと思います(紙質とインクの相性か?)。
6歳児向けだとしても文化的な成熟という観点だと上でもなきゃ下でもない気がします。
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「算数」
アプローチが少し変わった感じですが、基本的に内容は同じです。
公式はいつでもどこでも不変だから美しい。
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「しょしゃ」
書道+αっていう感じでしょうか。
「おんがく」もあまり変わっていない印象。
童謡〜滝廉太郎〜クラシックという大まかな流れ。
日本古来の楽器なども更にたくさん紹介されてもいいかな、と思います。
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「ずがこうさく」これは教科書よりも子供達の方が勝っています。
更に踏み込むと幼稚園年長さんよりも年中さんの頃がマックスかなと思います。
社会性が身に付いてしまうと途端に色合いなど平坦になってくる傾向にあります。
幼稚園の先生から聞いたのですが
「年長さんになると描けない色や形がたくさんあるんですよ」との事でした。
『吉本隆明の183講演』僕の考え方は、心の仕組みの問題でいちばん重要なのは、
胎児、乳児のところにあり、
特に母親と乳児との関係のあいだにある。
それが第1位だという考え方をとります。
そこを省みないで、非常にピンチに陥ったときの
家族の問題を解くことは
なかなかできがたいだろうと思われます。

これらの講演が無料でアーカイヴされているというのは只只驚異であります。
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社会と理科が一緒になった「あたらしいせいかつ」
週に1.4時間がこの教科になります。
生活という文言から「道徳」の代替かな?と思ったのですが、全然違いました。
非常に興味深い教科で娘と一緒になって読んでみたいと思います。
教科書がタブレットになる… っつうのも素敵な話だなとは思うのですが
人が人でありたいという欲求もこれまた不変ですから、幼いこの時期は紙媒体で学んで欲しいなと思います。

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by barrameda | 2015-01-21 10:21 | 育児 | Comments(0)

発表会

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早いもので今年は園生活最後の発表会でした。
年少の頃と比べ緊張というのを覚えて台詞が飛んでしまう子もチラホラいて微笑ましかったです。
おぼろげな社会秩序みたいなものをみんなが理解しつつあるのか、
ケーキのイチゴが倒れていたりするとそれを自分のものにして他の人のものは綺麗なものを分けるという感覚が育っているようです。
舞台上での緊張なんかもミラーニューロンというのか、それに付随したものなのかもしれませんね。

今年の演目は『さるかに合戦』。
かに役でした。しっかり練習したので上出来です。
メロディオン(ピヤニカの方が良い呼称かと思う)も
Luis Jordanを擦り切れる程聴かせていたのが奏功しまして、やる気のある音だったように思います。

演奏とさるかにの本番が終わり、練習通り出来なかった点がいくつかあったようで
「あそことあそことあそこが上手に出来なくて、あーあーっもう悔しい!」
と言っていたのが一番の成長かなと思います。
最近はJohnny Thundersが大好きで時代錯誤な赤いアイシャドーもキマって本人も充実した一日になったようです。
by barrameda | 2014-12-18 16:32 | 育児 | Comments(2)

パーフェクト

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このところ息子が愛らしい。
二歳児全開、非常に手のかかる時期である上に本来の突っ走る性格が輪をかけて
買い物などは拷問に等しい(毎回保護されて謝りに行くとか、パン屋のパンを端から握りつぶしてまとめてお買い上げ等々)。


娘が同じ頃スーパーの玉子売り場で玉子のパックを次々に放り投げて床を真っ黄色にしたことなど、
今考えると可愛らしい出来事だったように思える。
力がまとまって外に向かう時期なのか…と第二子にしてようやく考え至るようになった。

息子を抱きしめる、永遠の日だまりの様な途方もない安堵感に包まれる。
それは人智を軽く超えていて目が眩むほど(これが産まれてくる前の世界なのか…と一瞬本気で思う)。
おぼろげに想像するに、この力は三歳前後になると霧散してしまうものだろう。
お漏らしをしなくなって話が出来るようになってしまうと消えてしまう生命の雫。
多くの人が三歳四歳が可愛いと言うけれど、それは多少の分別がついて楽に接することが出来るからじゃないか、と。
大人の都合ではないかな、と考えるようになりました。

彼らの理解力は相当で言葉が出来る人から言葉で説明を受けて頭で理解しなければ分からないような行動をする。
おそらく倫理観という概念は科学的な証明がされつつあるように先天的なものだろう。
反抗期というのではなくて、あらゆるバイアスがかかっていない故の素の言動なのではないかと。
娘の時にこれに気がついていれば、もっと違った態度で接してやれたのではないかと自責の念にかられます。

父性  力の誇示の必要な政治的バイアスを以て接しなければならない時
(なるべくない方向がいいかと思う。高倉健さんはドンっと上座に座ってる父親ではないはずだ)
上質な言葉を投げかけてやる方が背骨が強くなるのかも知れない。
by barrameda | 2014-11-23 10:49 | 育児 | Comments(9)

就学前MRワクチン終わりました〜

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以下、内田先生の 『半分あきらめて生きる』備忘録として。

半分あきらめて生きる

「半分あきらめて生きる」という不思議なお題を頂いた。「あるがままの自己を肯定し、受け入れるためには、上手にあきらめることも必要なのでは。閉塞感漂う現代社会でどう生きていけばいいのか」という寄稿依頼の趣旨が付されていた。 
 『児童心理』という媒体からのご依頼であるから、不適切な(過大な)自己評価をしている子供たちの自己評価を下方修正させることの効用と、そのための実践的な手順についてのお訊ねなのであろうと思った。
 なぜ私にそのような原稿発注があったかというと、ずいぶん前に学校教育について論じた中で、「教師のたいせつな仕事のひとつは子供たちの過大な自己評価を適正なレベルにまで下方修正することにある」と書いたことがあるからである。これはたしかにほんとうの話で、「宇宙飛行士になる」とか「アイドルになる」とか「サッカー選手になる」とかいうことを「将来の夢」として小学生が卒業文集に書く分には可憐だが、二十歳過ぎて仕事もしないで家でごろごろしている人間が語ると少しもかわいげがない。そういう人はどこかで「進路修正」のタイミングを失したのである。むろん、そういう人の中にも10万人にひとりくらいの割合で、それからほんとうにNASAに就職したり、グラミー賞を受賞したり、セリエAにスカウトされたりする人も出てくることがあるので、あまり断定的には言えないが、そういう「起死回生の逆転劇」を演じられるような大ぶりな若者は年寄りの説教など端から耳を貸さないので、こちらががみがみ言ったくらいで「大輪と咲くはずだった才能が開花せずに終わった」というような悲劇は起きないから、いささかも懸念するには及ばないのである。
というようなことを書いたかに記憶している。その意見は今も変わらない。才能というのはまわりの人間がその開花を妨害しようとすればつぶせるようなやわなものではない。むしろ「自分をつぶしにかかっている」という現実そのものを滋養にして開花するのである。説教くさい一般論ですぐにつぶれてしまうような才能は「才能」とは呼ばれない。
真にイノベーティブな才能は、その人の出現によって、それまで「旧いシステム」に寄食していた何千人か何万人かの面目を丸つぶれにしたり、失業に追いやってしまうものなのであるから、その出現が「既得権益者」によって妨害されて当然なのである。万人がその出現を諸手を挙げて歓迎する才能などというものはこの世に存在しない。
かつて白川静は孔子を評してこう書いたことがある。
「孔子の世系についての『史記』などにしるす物語はすべて虚構である。孔子はおそらく、名もない巫女の子として、早くに孤児となり、卑賤のうちに成長したのであろう。そしてそのことが、人間についてはじめて深い凝視を寄せたこの偉大な哲人を生み出したのであろう。思想は富貴の身分から生まれるものではない」。(白川静、『孔子伝』、中公文庫、2003年、26頁)
思想は富貴の身分から生まれるものではないというのは白川静が実存を賭けて書いた一行である。「富貴の身分」というのはこの世の中の仕組みにスマート適応して、しかるべき権力や財貨や威信や人望を得て、今あるままの世界の中で愉快に暮らしていける「才能」のことである。「富貴の人」はこの世界の仕組みについて根源的な考察をする必要を感じない(健康な人間が自分の循環器系や内分泌系の仕組みに興味を持たないのと同じである)。「人間いかに生きるべきか」というような問いを自分に向けることもない(彼ら自身がすでに成功者であるのに、どこに自己陶冶のロールモデルを探す必要があるだろう)。富貴の人は根源的になることがない。そのやり方を知らないし、その必要もない。そういう人間から思想が生まれることはないと白川静は言ったのである。
同じようなことを鈴木大拙も書いていた。『日本的霊性』において、平安時代に宗教はなく、それは鎌倉時代に人が「大地の霊」に触れたときに始まったという理説を基礎づける中で大拙はこう書いている。
「享楽主義が現実に肯定される世界には、宗教はない。万葉時代は、まだ幼稚な原始性のままだから、宗教は育たぬ。平安時代に入りては、日本人もいくらか考えてよさそうなものであったが、都の文化教育者はあまりに現世的であった。外からの刺激がないから、反省の機会はない。(・・・)宗教は現世利益の祈りからは生まれぬ。」(鈴木大拙、『日本的霊性』、岩波文庫、1972年、41-42頁)
白川静が「思想」と呼んでいるものと、鈴木大拙が「宗教」と呼んでいるものは、呼び方は違うが中身は変わらない。世界のありようを根源的にとらえ、人間たちに生き方を指南し、さらにひとりひとりの生きる力を賦活する、そのような言葉を語りうることである。思想であれ宗教であれ、あるいは学術であれ芸術であれ、語るに足るものは「富貴の身分」や「享楽主義」や「現世利益」からは生まれない。二人の老賢人はそう教えている。
これが話の前提である。私が問題にしているのは「真の才能」である。なぜ、私が「自己評価の下方修正」についての原稿をまず「真の才能とは何か?」という問いから始めたかというと、「真の才能」を一方の極に措定しておかないと、「才能」についての話は始まらないからである。というのは、私たちがふだん日常生活の中でうるさく論じ、その成功や失敗について気に病んでいるのは、はっきり言って「どうでもいい才能」のことだからである。
「富貴」をもたらし、「享楽主義」や「現世利益」とも相性がよいのは「どうでもいい才能」である。それは思想とも宗教とも関係がない。そんなものは「あっても、なくても、どうでもいい」と私は思う。
ところが現代人は、まさにその「あっても、なくても、どうでもいい才能」の多寡をあげつらい、格付けに勤しみ、優劣勝敗巧拙をうるさく言挙げする。
今の世の中で「才能」と呼ばれているものは、一言で言ってしまえば「この世界のシステムを熟知し、それを巧みに活用することで自己利益を増大させる能力」のことである。「才能ある人」たちはこの世の中の仕組みを理解し、その知識を利用して、「いい思い」をしている。彼らは、なぜこの世の中はこのような構造になっているのか、どのような与件によってこの構造はかたちづくられ、どのような条件が失われたときに瓦解するのかといったことには知的資源を用いない。この世の中の今の仕組みが崩れるというのは、「富貴の人」にとっては「最も考えたくないこと」だからである。考えたくないことは、考えない。フランス革命の前の王侯たちはそうだったし、ソ連崩壊前の「ノーメンクラトゥーラ」もそうだった。そして、「考えたくないことは考えない」でいるうちに、しばしば「最も考えたくないこと」が起き、それについて何の備えもしていなかった人たちは大伽藍の瓦礫とともに、大地の裂け目に呑み込まれて行った。
この世のシステムはいずれ崩壊する。これは約束してもいい。いつ、どういうかたちで崩壊するのかはわからない。でも、必ず崩壊する。歴史を振り返る限り、これに例外はない。250年間続いた徳川幕府も崩壊したし、世界の五大国に列した大日本帝国も崩壊した。戦後日本の政体もいずれ崩壊する。それがいつ、どういうかたちで起きるのかは予測できないが。
私たちが「真の才能」を重んじるのは、それだけが「そういうとき」に備えているからである。「真の才能」だけが「そういうとき」に、どこに踏みとどまればいいのか、何にしがみつけばいいのか、どこに向かって走ればいいのか、それを指示できる。「真の才能」はつねに世界のありようを根源的なところからとらえる訓練をしてきたからだ。
問題は「すべてが崩れる」ことではない。すべてが崩れるように見えるカス的状況においても、局所的には秩序が残ることである。「真の才能」はそれを感知できる。
カオスにおいても秩序は均質的には崩れない。激しく崩れる部分と、部分的秩序が生き延びる場が混在するのがカオスなのである。どれほど世の中が崩れても、崩れずに残るものがある。それなしでは人間が集団的に生きてゆくことができない制度はどんな場合でも残るか、あるいは瓦礫の中から真っ先に再生する。どれほど悲惨な難民キャンプでも、そこに暮らす人々は争いを鎮めるための司法の場と、傷つき病んだ人を受け容れるための医療の場と、子供たちを成熟に導くための教育の場と、死者を悼み、神の加護と慈悲を祈るための霊的な場だけは残る。そこが人間性の最後の砦だからである。それが失われたらもう人間は集団的には生きてゆけない。
裁きと癒しと学びと祈りという根源的な仕事を担うためには一定数の「おとな」が存在しなければならない。別に成員の全員が「おとな」である必要はない。せめて一割程度の人間がどれほど世の中がめちゃくちゃになっても、この四つの根源的な仕事を担ってくれるならば、システムが瓦解した後でも、カオスの大海に島のように浮かぶその「条理の通る場」を足がかりにして、私たちはまた新しいシステムを作り上げることができる。私はそんなふうに考えている。
自分の将来について考えるときに、「死ぬまで、この社会は今あるような社会のままだろう」ということを不可疑の前提として、このシステムの中で「費用対効果のよい生き方」を探す子供たちと、「いつか、この社会は予測もつかないようなかたちで破局を迎えるのではあるまいか」という漠然とした不安に囚われ、その日に備えておかなければならないと考える子供たちがいる。「平時対応」の子供たちと「非常時対応」の子供たちと言い換えてもいい。実は、彼らはそれぞれの「モード」に従って何かを「あきらめている」。「平時対応」を選んだ子供たちは、「もしものとき」に自分が営々として築いてきたもの、地位や名誉や財貨や文化資本が「紙くず」になるリスクを負っている。「非常時対応」の子供たちは、「もしものとき」に備えるために、今のシステムで人々がありがたがっている諸々の価値の追求を断念している。どのような破局的場面でも揺るがぬような確かな思想的背骨を求めつつ同時に「富貴」であることはできないからである。
人間は何かを諦めなければならない。これに例外はない。自分が平時向きの人間であるか、非常時向きの人間であるかを私たちは自己決定することができない。それは生得的な「傾向」として私たちの身体に刻みつけられている。それが言うところの「あるがままの自己」である。だから、「あるがままの自己」を受け入れるということは、「システムが順調に機能しているときは羽振りがよいが、カオスには対応できない」という無能の様態を選ぶか、「破局的状況で生き延びる力はあるが、システムが順調に機能しているときはぱっとしない」という無能の様態を選ぶかの二者択一をなすということである。どちらかを取れば、どちらかを諦めなければならない。
以上は一般論である。そして、より現実的な問題は編集者が示唆したとおり、今私たちがいるのが「閉塞感漂う現代社会」の中だということである。
「閉塞感」というのは、システムがすでに順調に機能しなくなり始めていることの徴候である。制度が、立ち上がったときの鮮度を失い、劣化し、あちこちで崩れ始めているとき、私たちは「閉塞感」を覚える。そこにはもう「生き生きとしたもの」が感じられないからだ。壁の隙間から腐臭が漂い、みずみずしいエネルギーが流れているはずの器官が硬直して、もろもろの制度がすでに可塑性や流動性を失っている。今の日本はそうなっている。それは上から下までみんな感じている。システムの受益者たちでさえ、このシステムを延命させることにしだいに困難を覚え始めている。一番スマートな人たちは、そろそろ店を畳んで、溜め込んだ個人資産を無傷で持ち出して、「日本ではないところ」に逃げる用意を始めている。シンガポールや香港に租税回避したり、子供たちを中学から海外の学校に送り出す趨勢や、日本語より英語ができることをありがたがる風潮は、その「逃げ支度」のひとつの徴候である。彼らはシステムが瓦解する場には居合わせたくないのである。破局的な事態が訪れたあと、損壊を免れたわずかばかりの資源と手元に残っただけの道具を使って、瓦礫から「新しい社会」を再建するというような面倒な仕事を彼らは引き受ける気がない。
だから、私たちがこの先頼りにできるのは、今のところあまりスマートには見えないけれど、いずれ「ひどいこと」が起きたときに、どこにも逃げず、ここに踏みとどまって、ささやかだが、それなりに条理の通った、手触りの優しい場、人間が共同的に生きることのできる場所を手作りしてくれる人々だということになる。私はそう思っている。
いずれそのような重大な責務を担うことになる子供たちは、たぶん今の学校教育の場ではあまり「ぱっとしない」のだろうと思う。「これを勉強するといいことがある」というタイプの利益誘導にさっぱり反応せず、「グローバル人材育成」戦略にも乗らず、「英語ができる日本人」にもなりたがる様子もなく、遠い眼をして物思いに耽っている。彼らはたしかに何かを「あきらめている」のだが、それは地平線の遠くに「どんなことがあっても、あきらめてはいけないもの」を望見しているからである。たぶんそうだと思う。

by barrameda | 2014-05-14 10:28 | 育児 | Comments(6)

ホスピタル

産院についてです。一応、ひとつの記録として。
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今回も分不相応に広い個室を予約致しました。
手前のは私の簡易ベッド。このマットが腰痛の酷い私には丁度いい硬さで最高(持ち帰りたかったほど)。
娘は奥のソファで寝てもらいました。
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トイレとシャワー。
詳細に写そうと思っていたんですけど、疲れてて出来ませんでした。
シャンプーや石けんなども質の非常に高いものが揃っております。
シャワーの水圧も強くてお湯がドヘドヘと出ます。タイではなかなかないです。
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出産の数週間前の検診時。
新しくなった「women's centre」です。この階だけで産婦人科医の先生が18人います。
今回も娘の時と同じノパドン先生にお願い致しました。
英国、米国、独逸、日本での医師資格のある先生が殆どなので言葉の心配も少なく安心(私はチンプンカンプンですけど…)。
もちろん専門の日本語通訳の方もいらっしゃいます。
JCI認定を受けている数少ない病院でNICUも万全です。
硬膜外和痛分娩(無痛と違って胎児への影響がない)が通常の出産方法です。
患者への対応もさることながら医師、看護師への待遇も突出していることから、タイ中から敏腕ドクター達が集まっている印象です。
サミティベートなどの周辺病院よりも格段に細かいところまで考えられているなと個人的には思いました。
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新館10階のロビー。
綺麗なとこで日本人フロアと言っても差し支えない程です。
川が流れる中庭は錦鯉が泳いではります。
ここに日本人受付や通訳の窓口があり、18人の日本語通訳の方がいらっしゃいます。
私はタイ語が下手なので(悪露とか産褥期なんて言葉日本語でも滅多に使わないですし…)簡単な内容ではなくて専門用語が出て来る時は通訳の方をお願いするのですが、三年前と比べてレベルがかなり上がった気がしました。
現在は入院患者の5割が日本人なので、皆さんとても忙しそうにしてました。
興味深かったのは日本に10年近く暮らした方達は(留学など数年の滞在ではなくてという意味で)メンタルもかなり日本人に近くなっているな、という点。
やはり日本ータイって両者同化しやすい部分が大きそうですね。
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至れり尽くせりで非常に快適なのですが、血圧係の看護婦さんやナーサリーからのマメな電話でのんびり過ごす事はちょっと難しいです(まあ、入院ですし3時間おきの授乳もあるので無理なのはわかってるんですけどね)。
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気になる出産費用ですが…

自然分娩 約50000B
無痛分娩(硬膜外和痛)約60000B
帝王切開 約70000B

です。
誰にでもお勧めできるわけではありませんが、第一に母体が安定していて(35週以前で日本の産院での許可証がないと飛行機の搭乗は出来ません。超安定してないとたぶん許可が下りないと思われます)、渡航者全員が海外にある程度慣れていて危険回避が出来、夫が諸々の手続きを(妊娠ビザ申請、ワッタナー区役所出生届、日本国出生届、一時渡航証申請くらいのもので楽です)一人で出来る方、そして何かトラブルが起きても笑ってやり過ごしちゃう能力!気にしない能力等々… があれば国内よりは快適に出産に臨める確率が高いと思います。
ちなみにタビアンバーン取得可能です。
30年後は成田ーロンドンが2時間30分の通勤圏になるのだそうですから、ASEANとかの概念もなくなってそうですけど…
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バムルンラード病院でした。 

あ、二階のフードコートのお粥が激的に旨いです。
なかなか食べられないレベルと言っても過言ではありません。

4/16 追記 重要

妊娠ビザに必要なので日本出国前に役所で婚姻証明を取得して持参してください。
尚、15歳以下の子供は滞在制限はありません。
by barrameda | 2012-04-04 00:07 | 育児 | Comments(6)

ファンタスティック4

一人コケたら総倒れ…的ないっぱいいっぱいの毎日を、この三年間妻子と三人で走ってきました(ニャンタマもクマ美も協力した)
そして、この度更に仲間がもう一人誕生致しました。
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バンコク、バムルンラードインターナショナル・ホスピタルにて2760gの元気な男の子を授かりました。
一姫二太郎です。
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娘も大変な状況を理解しており、色々と気を遣い弟を優先したり姉としての自覚とヤキモチとの板挟みで疲労困憊です(目の下にクマがクッキリ)。
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わがままを言わず、よく耐えてくれました。世界で一番のお姉さんになれたね!強い子に育ってくれてありがとう。
そして一度ならず二度も私の子を命を賭けて産んでくれた妻に心から感謝です。感謝してもしきれません。

今回は恐ろしいことに破水がなく陣痛が来て20分後には産まれてました(妻は安産体質なので陣痛が5分おきになるまで全く分からず、それまではフツーに中華レストランで上海五目炒麺と普通の五目炒麺の違いを三人で食べ比べながら白熱した議論をしてました。ちなみに娘の時はパッタイを食べ終わったら破水した)。
子宮の収縮が激しくなり痛みが大きくなってきたのでタクシーで病院に向かったのが22時ちょうど(この時、様子見にしないですぐに病院に向かって大正解でした)。
病院に着いて私がエマージェンシーに「出産しちゃいそ〜う」と伝えましたら慣れた方が間髪入れず飛んできてくださいました。後から妻に聞きましたら、この時ストレッチャーに横たわった時既にに頭が出ていたそうです。
私も相当取り乱していて、この時の記憶がハッキリしないのですが強烈に印象に残っているのは、悲鳴をあげながらストレッチャーで運ばれる妻を三歳にならない娘が必死に走って追い掛けていた事です。
妻が運ばれてから「ママもう帰って来ない」と言って、わぁわぁと泣いたので命の危険を肌で感じたのかもしれません。
お産は「1000人のうち、4.5人が命を落とす」と聞いていたので私も不安でオロオロしましたが
看護婦さんに「これは普通でしょうか?」と聞きましたら「はい、普通です。問題ないのですぐに産まれますよ」と言われて落ち着きました。
三年前は破水があり、無痛にする時間の余裕があったのでこういう状況にはならなかったんですが、やはりあの状況に直面するとヘナヘナとするばかりで何も手につきませんでした。
なんとも頼り甲斐のない父親でありますが、私も気がつけば4人家族の父になってました。
といっても頼りないのが変わるかと言えば、変わるものでもないと思うので力まず無理をせず生きて行こうと思います(娘は溺愛していればいいか…なんて思っていたんですけど、男の子ってプレッシャー感じますね、糸井さんじゃないけど「力」みたいなものよりもそうではない強いものを授けてやらないと…なんて考えてしまいました。むむ〜難しそうだな)。
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最後になりましたがブログを通じて知り合った皆様から妻用のマタニティウェアを箱一杯送って頂いたり、バンコクでも暖かいお言葉をかけて下さったり、我々家族を気にかけて頂き本当にありがとうございます。
口角を上げ楽しい親であり続けたいなと思っておりまする!(大変だけど…)
またまた新生児との生活でしばらくバタバタとしますが、今後ともよろしくお願い致します。
by barrameda | 2012-04-02 01:24 | 育児 | Comments(8)

非効率ですけど

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『はやくはやくっていわないで』
幼児用絵本ですが、大人も十分読み応えあります。
by barrameda | 2011-11-16 22:28 | 育児 | Comments(6)

芋の子

野良仕事もけっこう覚えてきました。
勝手な私感ですが、幼児の情操教育には土に触れてるというのはかなり良さそうだなと実感してます。
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消石灰はこれくらい…
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有機肥料も混ぜてサラサラ〜 
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今日は里芋の収穫です。
下にあるのが里芋の葉。根菜です。って当たり前か。
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獲れました。一かぶから3キロちょっと。
まあまあでしょうか。
煮っころがしにしようと思ってます。
湯剥きして(形が崩れるけど楽です)少なめの醤油、砂糖、味醂、出汁醤油、酒で煮ます。
e0100152_22492727.jpg

私は社会的に破綻しかけてるようなダメ人間なのですが、食べるものは土の力を借りて多少は作っとります。

ジャイアンに脅され、TPPに… 
喰う寝る、という基本的な営みを他者に依存するという生き方って等身大感みたいなのが無くなってつらいだろうなぁ〜
by barrameda | 2011-10-29 22:50 | 育児 | Comments(2)


頭の中は夢がいっぱい。


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