サンダーロード
明らかに抜き差しならない状況に近づいてきた印象。感染者を特定し、隔離、治療という医療行為が綻び始める今週半ばより感染に歯止めが効かなくなるようです。感染者が1万人を超えると1週間後には10万人になり、その2週間後には100万人になるそうですが、それを抑制する事が可能だった期限は3月26日。
全ての産業セクターに罹患者が現れ始める100万人という数字が現実としてどれほど甚大な数なのか私には想像もつきませんが、経済活動の大幅な減少に陥いり、更に電力停止に及びますと医療や通信も不可能となり、一部の人達にとっては生命の維持が困難になるようです。これが現実となりうるのかまだ不明ですが、様々な副次的要因から命を落とす人が日を追って増加するのは不可避的ではないかと思われます。
5月6月の湿度の東京で遺体が山積されるというのはちょっと考えたくない未来図ですが、既に米国や欧州では多くの遺体が市場等、公共の施設に置かれています。
「マスク1億枚を一般国民に安定供給する、安心してくれ」と経産省が発表したのが2月21日です。これをどう捉えるかは最早個々の判断ですが(アベ大本営発表を盲信し座して死を待つのもシュールだとは思うが、己の遺体の処理は自己責任では成し得ない)、2、3週間外出しなくても済む程度の食料と燃料の分割的確保は、他者への配慮という観点からもしておくべきだろうと思われます。
人間の定義の一つに自己内省的に死者(含ネコ)とのコミュニケートが可能であるという点があり、死の定義は自己を観察できなくなるという事が挙げられます(自分を観察できていない人が小さな死を日々内包してしまうのはその為です)。万象が霧散してしまう前にいま一度、自分の場所で静かに考えることが求められているような気がしております。
私の中で確信に変わりつつある一つのこととして内省的な日々を送ってきた人々は、今回の事象をごく当たり前に人間活動に付随する、「一つのつまずき」のようなものとして擦過しているように思われます。そのもの自体が大局的な内省であったか、と友人知人を失うことなく静かに振り返ることができる日が来るといいな、と思うのであります。